サントリー次世代環境教育「水育 (R)」

「水」について楽しく学ぼう!

江戸えど時代

いくさつづく時代がようやく終わり、1600年のせきはらたたかいをて1603年に江戸幕府えどばくふが開かれ、江戸えど時代になりました。江戸えど時代はかつてない平和な時代となり、いくさに使われなくなったお金は、治水ちすい工事や上水道づくりなど国の整備せいびと、生活を楽しむことに向けられます。そんなゆうから、「おいしい水が飲みたい」と、水を買って飲む人びともあらわれました。

1. 江戸えど時代前半の治水ちすい

江戸えど時代の米のそうしゅうかく高の増加ぞうかは、目を見はるものがあります。1600年の米のそうしゅうかくりょうに対し、江戸えど末期まっきの1850年のそうしゅうかくりょうは倍以上いじょうになりました。これを可能かのうにしたのが、「治水ちすい」、そしてがたをかんたくした新田開発と農業技術ぎじゅつ改良かいりょうです。

まず、江戸えど時代の前半に、利根とね川のような大きな河川かせんの流れをえる工事や、ていぼうをつくる工事などが次つぎとおこなわれました。

2. 上水道の整備せいび

江戸えど時代には、水路や上水道の整備せいびがおこなわれました。江戸えどの町では、幕府ばくふを開くにあたり神田かんだ川の流れを調整し、これを発展はってんさせる形で神田上水かんだじょうすいができました。

江戸の上水い戸
上水道につながったい戸

江戸幕府えどばくふができて50年後には、多摩たま川から江戸えどに水を引く玉川上水たまがわじょうすいの工事が始まります。この玉川上水たまがわじょうすい神田上水かんだじょうすいで、江戸えどの町に水がめぐるようになりました。市中をめぐる配水管はいすいかん総延長そうえんちょうは150キロメートルにもおよび、当時、給水面積きゅうすいめんせき給水きゅうすい人口ともに世界最大さいだい給水きゅうすいシステムでした。「水道の水で産湯うぶゆにつかる」というのが江戸えどっ子のほこりだったのです。

水源すいげんにめぐまれなかった関東かんとう平野には、玉川上水たまがわじょうすいの他、野止用水のびどめようすいが引かれ、新田集落ができました。

江戸以外えどいがいでも、赤穂あこう水道すいどう福山水道ふくやますいどう桑名くわな御用水ごようすい高松水道たかまつすいどう水戸みと笠原水道かさはらすいどうなど、多くの上水道が整備せいびされました。

3. 森林の保護ほご

新潟にいがた県の三面みおもて川では、産卵さんらんのために川をのぼるサケやマスを、川の中につくったかこいにみちびいて自然産卵しぜんさんらんさせ、やしていました。産卵さんらんする魚や生まれたち魚を守るため、三面みおもて川の河口かこう近くの山に入ることや、木を切り出すことが禁止きんしされ、はんが積極的せっきょくてきに木を植え、森林を保護ほごしていました。

サケの産卵さんらん場所は水がきれいで、川底かわぞこが細かい砂利じゃりのところです。山を管理かんりして、山の土が川に流れこまないようにすると、川がどろ水でにごるのをふせげます。木ぎが川につくる日かげは、サケのち魚のえさとなる虫が多く、産卵さんらんする魚やち魚を直射ちょくしゃ日光から守る役割やくわりもあります。森林が魚を守る「うおつきりん」という考え方が、江戸えど時代にすでに生まれていたものと考えられます。

もっと“わくわく!”水コラム 「飲料水いんりょうすいを売る商売が始まる」

江戸えど時代の半ば、おいしいよど川の水をわかした湯でお茶を飲みたいと、はるばる大坂おおさかから小ぶねを出して、川の水をくみに行く人が少なくありませんでした。そのうちしつのよい川の水を売る者があらわれて、商売になっていきます。

江戸えどでも、上水道がとどかなかった地域ちいきはもちろん、上水道があったところでも、上水からくみとった水を売り歩く水屋から水を買っていたしょみんがたくさんいました。家を留守るすにしても水代の小銭こぜにいておけば、台所の水がめに上水を入れていってくれるサービスもあり、安かったのです。

水屋とはべつに、砂糖さとうなどで味つけした冷水れいすいを「ひゃーっこいーひゃーっこいー」と売り歩く水売りもいました。

江戸えど時代には川の治水ちすい工事や上水道づくりが次つぎとおこなわれたんだね。森林を守ることできれいな川の水を守るという考えも、こんな昔からあったことなんだね。

【参考文献】

 ・梅村又次/著『日本経済史』岩波書店

 ・石川英輔/著『大江戸えねるぎー事情』講談社

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