鎌倉時代
平安時代の半ば、力の強いごう族が武器を持ち、武士の起こりとなります。1192年には鎌倉に武士による幕府がつくられ、鎌倉時代に入りました。水の豊かな都とちがって、鎌倉は水資源のとぼしい山あいの土地でした。文化も、京のはなやかさから質素で合理的、女性的から男性的な文化に変わります。貴重な水も、合理的に管理されるようになっていきました。
1. 水運の発展
鎌倉時代に入ると、漁師が自分の漁船で魚などを運び、売って回るようになりました。このように商品をのせて売りまわる船を「かい船」といいます。
かい船
水の上で働いたり、商売をする者が増えたため、ルールづくりが始まり、その決まりは「かい船式目」と名付けられました(書き記されたのは室町時代とされています)。「かい船式目」は海上交通の法律として長く参考にされた、完成度の高いものでした。
こうして水上交通などは活発になり、鎌倉の海岸は船でにぎわいました。しかし、鎌倉の海岸は船が岩などに乗り上げてしまうことが多かったため、港はおきにある和賀江島につくられました。
2. い戸と橋の建設
水にめぐまれなかった鎌倉では、水がわき出るい戸は貴重な水源でした。水争いを防ぐため、い戸は寺社によって守られ、今でも使われているものがあります。
また、川の支流が多い鎌倉では治水工事や橋の建設もしばしばおこなわれました。江戸時代には、徳川光圀が鎌倉の中でも特に水の味のよい10のい戸を「鎌倉十井」と選定しました。
もっと“わくわく!”水コラム 「台所に流し(水場)をつくる」
鎌倉時代から食生活は大きく変わります。これまでの貴族達のぜいたくな食生活は改められ、質素けん約をモットーに精進料理が完成していきました。
食材が質素になった分、料理はどんどん手がこんでいきます。これまでは、「生」「干す」「焼く」「あくをぬく」程度だったものが、「につける」「あえる」「蒸す」など、いろいろな調理方法が生まれました。そのため、かまどのそばに水が必要になり、この時代から、流し(水場)が、家の台所の中につくられるようになりました。
鎌倉幕府は、水運のルールづくりを始めたり、つくったい戸の水争いをさけるために寺社に守らせたりしたんだ。貴族とちがって武士は、水のあつかいに関しても実用を重視していたんだね。