室町・安土桃山時代
1333年に鎌倉幕府がほろんでから、1603年に江戸幕府が成立するまで、日本は長らく不安定な政情下にありました。室町時代の武将達は金のかかる戦に備えて、農地をうるおし治水をおこなって、豊かな領地を築こうとしました。
これまで人びとは、水は集落の中心にあるい戸などでくんでいましたが、室町時代になると、かなりの地域で水路がつくられ、住居の近くまで水を引くようになりました。安土桃山時代には、大阪城を築城する時に下水道も整備されました。
1. 武将による治水と日本初の下水道
水害から領民を守り、収かく高を上げて豊かな領地にするために、武士は治水をおこないました。領民にとって治水をおこなう領主は、水害から家族や財産や田畑を守ってくれる人であり、尊敬の的になりました。
例えば、熊本城主、加藤清正は多くの治水工事をおこない、武将でありながら、土木の神様として祭られています。
また、甲斐(今の山梨県)の武将、武田信玄の治水工事には信玄のさまざまなアイデアがいかされ、領民達も進んで工事に協力しました。
太閤下水
1583年には豊臣秀吉が大阪城築城にともなうまちづくりのいっかんとして下水道をつくりました。この「太閤下水」は、今も大阪市中央区で利用されています。
2. 名水を愛した茶人、千利休
鎌倉時代に始まった茶道は、室町時代になると武家を始めしょ民にまで広がっていきます。安土桃山時代には、千利休が、茶室と茶道具をさらに発展させ、茶会と点前の形式を完成させました。
利休は、古くから名水の地として知られる京都こう外、天王山のふもと、山崎にも、茶室を築いています。利休は、「山崎の名水」を愛し、この地で茶の世界をつくりあげました。
もっと“わくわく!”水コラム 「武田信玄のトイレ」
武田信玄のトイレは6じょうのたたみじきで、大変立派なものでした。せまいと外からおそわれるかもしれないという理由もあって広くしたようです。またこのトイレは、といを伝わせてふろの残り湯を流す、水洗式でした。この時代に水洗式のトイレは、とてもめずらしいものでした。
室町時代から安土桃山時代の武将は、力を増すために、領内の治水をおこなったんだ。おいしい水でお茶を入れる楽しみも、この時代に千利休が広めたんだね。