古墳時代・飛鳥時代
古墳時代は、3世紀〜7世紀の、日本のあちこちで盛んに古ふん(=墓)がつくられていた時代です。飛鳥時代は古墳時代の後半から始まり、飛鳥文化が花開いた時代を指します。聖徳太子が活やくしたのもこの時期です。
弥生時代のムラ対ムラの戦いで勝ったムラは、どんどん大きくなっていき、ムラからクニになっていきました。そして古墳時代には、周囲のクニを従える大きな国、ヤマト王権が誕生します。
この時代、水を自分達の手に入れて便利に使えるようにすること(治水)は、ヤマト王権の役割にもなっていきました。あちこちでおこなわれた治水工事により、人びとの暮らしが安定し、ヤマト王権は力を持つようになっていきます。
1. 治水工事
弥生時代の人びとは水害に対する技術を十分に持っていませんでした。しかし、広くなったクニの土地を守っていくためには、ごう族などクニのリーダーが水を自分達の手に入れて便利に使えるようにする「治水」をおこない、稲の収かくを安定させ、クニの人びとを従える必要があります。そのため、川や湖で治水工事がおこなわれるようになりました。
記録に残っている我が国最初の工事は、323年におこなわれた、てい防「茨田堤」の築造です。今の大阪府淀川につくられ、工事を手がけたのは朝鮮半島の百済の国から来た、秦氏でした。
その後も、全国各地で治水工事がおこなわれ、てい防やため池がつくられました。そうして、こう水や水不足から人びとの暮らしが守られ、水田が増えていきました。
2. 水軍の登場
水の上も戦いの場に
戦いが多かった古墳時代は、水の上も戦いの場になりました。水軍を持っていた地方のごう族も少なくありませんでした。水軍とは、船に乗って水の上で戦う軍隊です。
ヤマト王権は水軍を、朝鮮半島の国に差し向けました。継体天皇の時代(507年〜531年)には、物部氏が500せきもの水軍を率いて、百済に向かったことが伝えられています。
もっと“わくわく!”水コラム 「すがつくられはじめた」
すづくりは、4世紀ごろ、中国から伝わりました。つくり方は、蒸した米、こうじ、水を大きなつぼに入れて、日当たりのよい庭に並べて自然発こうさせるもので、いまでも鹿児島県の「福山黒酢」は、この方法でつくられています。すは、奈良時代には「苦水」とよばれます。
古墳時代には水をさらに便利に使えるように、治水工事をして、こう水や水不足を防いだり、水田に水を引きやすくしたりすることが始まったんだね。