縄文時代
約7万年前、東南アジアの中で現在のインドネシア、マレーシアあたりは地続きで、「スンダランド」と呼ばれていました。この「スンダランド」の人びとが、丸木ぶねに乗って日本列島へとう着し、沖縄で発見された湊川人や縄文人になった日本人の祖先だと考えられています。
縄文時代は、土器をつくり始めた約1万2000年前から、田んぼで稲をつくるようになる約2500年〜2300年前くらいまでといわれています。
縄文時代には、丸木ぶねによる交通・運ぱんが盛んになり、豊かな文化が花開きました。水によってもたらされた縄文文化とはどのようなものだったのか、見ていきましょう。
1. 水辺からふねに乗って海へ
約1万年前、日本列島は暖かくしめった空気に包まれていました。方ぼうに広葉樹林ができて豊かな実りにめぐまれる中、わたしたち日本人の祖先である縄文人達は、森の近くの水辺から、生活の場を広げていきました。
丸木ぶねで海へ
縄文人達は、丸木ぶねをつくって水の上を行き来し、漁をしただけでなく、行き着いた先の人びとと、もののやり取りをおこなっていました。約1万2000年前(縄文時代の初め)のものと思われる丸木ぶねをつくるためのおのが、鹿児島県の栫ノ原遺せきから出ています。
2. 水がもたらした豊かな生活
<ア. ふねで運ばれてくる品物>
青森県の三内丸山遺せきは、縄文時代の半ば、約5000年前ごろ、全国各地から運ばれてきた、さまざまなものが集まる場所であったことがわかっています。ここで取り引きされる品物は、新潟県のひすい、千葉県や岩手県のこはく、長野県や北海道の黒曜石、そしてはるか遠く、奄美諸島や沖縄のタカラガイやイモガイなど。縄文時代がいかに豊かであったかが想像できます。
<イ. 縄文人の食べ物>
A. 貝の干物
貝づかの断面図
愛知県豊川の河口には、貝づか(貝のからが捨てられたごみ捨て場)がたくさん残っています。縄文時代の後期、約4000年〜3000年前、ここは貝の干物の特産地だったようです。
貝の干物は、とってきた貝をはま辺に並べ、その上に火をたき、貝の口を開かせたら、身を取り出して、天日干しにしてつくっていたといわれています。
B. 大型の魚
石川県の真脇遺せき、千葉県の神門遺せきなどでは、はま辺に魚の解体場のようなあとが発見されています。縄文時代には小型の魚の漁がおこなわれていただけでなく、イルカや大型魚類を集団でつかまえて、はま辺で解体し、分配していたと考えられています。
C. のり
縄文人達が、海でとったのりなどの海そうも食べていたことが、はいせつ物の化石の調査からわかっています。
D. 塩
縄文時代の後期に海水から塩をつくったとされる場所のあとも見つかっています。海水を土器でにつめて塩を採っていたため、時間も手間もかかりました。そのため塩はこの時代、きっと貴重な品物だったことでしょう。
E. 水でにたドングリ
この時代、そのままではあくが強くて食べられないドングリ、クリ、トチノミなどを、土器に入れて水でにて、あくぬき※をして食べるようになりました。大量の水をためてそこにドングリなどをひたしてにる、きょ大なあくぬき用の場所をつくっている集落もありました。
※あくぬきとは・・・ 野菜や果物のしぶみ・えぐみをぬくこと。
縄文時代にはふねで海をわたって品物を運び、取り引きすることが始まっていたんだね。水辺に暮らすと食べ物もたくさん手に入り、その調理にも水を使って、いろいろなものがおいしく食べられるようになってきたんだ。