サントリー次世代環境教育「水育 (R)」

「水」について楽しく学ぼう!

奈良なら時代

710年、ヤマト王権おうけんは、奈良ならに都をうつしました。これが平城京へいじょうきょうです。この時代、農民のうみんの生活は苦しいものでした。そうした中、行基ぎょうきというそうは、生活が苦しい人びとをすくいたいという思いから、治水ちすいと人びとの救済きゅうさいをおこないます。行基ぎょうきは、朝ていからうとまれるほど人気になりました。奈良なら時代の人びと、とくまずしい農民のうみんにとって、水をおさめることは大きな関心事かんしんじだったのです。

1. 治水ちすいするそう行基ぎょうき

弥生やよい時代から水田はどんどんえていましたが、水はけの悪い土地や、ぎゃくに水がとどかない土地も多くありました。しかも農民のうみん飛鳥あすか時代に始まった重いぜいに苦しんでいました。

奈良なら時代のそう行基ぎょうきは、治水ちすい仏教ぶっきょう伝道でんどうをしながら、広く世の人びとをすくうことを目指していました。この時代、そうは朝ていの決まりにしたがわなければならなかったため、行基ぎょうききびしいとがめを受けます。

しかし、行基ぎょうきをしたって多くの農民のうみんがひんぱんに集まりました。農民のうみんたちは、行基ぎょうきの教えを聞き、行基ぎょうきともに橋やていぼうをつくりました。まずしい農民のうみんにとって、宗教しゅうきょう治水ちすいは、どちらも大きなすくいとなったのです。

行基(ぎょうき)
治水ちすい工事で人びとをすく行基ぎょうき

行基ぎょうき関西かんさい地方で貯水池ちょすいち、水路、ほりの築造ちくぞうを手がけ、また温泉おんせんも数多く発見したといわれています。

朝ていからうとまれていた行基ぎょうきでしたが、こうした功績こうせきみとめられ、東大寺とうだいじ大仏だいぶつづくりでは、朝ていにたのまれて力をすことになりました。

2. 水がもたらすよろこ

人びとの飲み水用のい戸は、わき水やきよらかな川の流れがある場所につくられました。そこは集落の中心となり、きれいな水をもとめて女たちが集い、い戸ばた会議かいぎに花をさかせました。『万葉集まんようしゅう』(現存げんぞんする日本にほんで一番古い和歌集)にもその様子が書かれています。

飲み水のあるところには人が集まり、そこへ物売りが来たり、あるいは物ぶつ交かんがおこなわれる場になりました。大和やまとの国では、い戸のまわりで市が立ちます。水場は、重いぜいに苦しむ農民のうみんや、まずしい人びとに、よろこびをもたらす空間だったのです。

もっと“わくわく!”水コラム 「入浴にゅうよく習慣しゅうかんが始まる」

日本にほん入浴にゅうよく習慣しゅうかん最初さいしょにもたらしたのは仏教ぶっきょうでした。奈良なら東大寺とうだいじでは、745年から大仏だいぶつがつくられ始めました。これにかかわっていた、多くのそうの身と心をきれいにあらい流す場所が必要ひつようになり、はじめて寺に「湯屋」とばれるふろがつくられました。

入浴にゅうよくは体をきれいにし、血行をよくします。仏教ぶっきょうの「入浴にゅうよくは七病をのぞき、七福をる」という教えをもとにして、寺の参拝客さんぱいきゃくやそうという考えもありました。寺は人びとを無料むりょうでふろに入れたのです。

やがて、湯屋ではせまくなり、寺の境内けいだいに大湯屋とよばれた大浴場だいよくじょうがつくられました。この大湯屋を使った人びとは、お礼の金をくようになり、それが入浴料にゅうよくりょうとなっていったのです。

奈良なら時代には都がつくられたけれど、農民のうみんたちは重いぜいおさめなければならなくて生活が苦しかったんだ。でも水がそんならしを助けたり、楽しみをあたえてくれていたんだね。

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